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by よしだ よしだ

【連載】シュガーロード紀行 -玖- 飯塚

【連載】シュガーロード紀行 -玖- 飯塚

ごきげんよう よしだです。

この連載は、その昔 砂糖が運ばれていったことから「シュガーロード」とも呼ばれる長崎街道を辿りつつ、沿道に今も残る銘菓を中心にその土地ならではのお菓子を食べ歩こうという企画です。

前々回の唐津、前回の博多・大宰府は唐津街道を進んでいましたが、今回からは再び長崎街道に戻って飯塚を訪れます。

旧福岡藩(筑前国)を通る長崎街道には宿場町が六ケ所あり、「筑前六宿」と呼ばれていました。

飯塚もその「筑前六宿」の一つです。博多方面と当時天領だった大分の日田を結ぶ日田街道とも交わり、遠賀川の流域でもあったことから、交通・物流の要衝でもありました。

近代に入ると石炭の一大産地、筑豊炭田の中心都市としてもさかえた場所です。

旧 伊藤伝右衛門邸

まず最初に訪れるのは、筑豊の炭鉱王として知られた伊藤伝右衛門の旧宅です。

西鉄バスでは福岡市内発 旧伊藤邸行きのバスが運行されています。

バスに揺られること約1時間、終点は旧伊藤邸のすぐそばなので徒歩1~2分でお屋敷の前に着きます。

こちらが正門。長屋門といって、門の両脇部分がお屋敷の使用人の住居スペースになっている作りです。

この門は、現在の福岡市天神の福岡銀行本店付近にあった伝右衛門の別邸(赤銅御殿)から移築したとのこと。この門構えからしてすごい威圧感です。

門の看板は麻生さんが総理大臣だった頃に揮毫したもの。達筆ですね。

なお、麻生さんの家系も石炭産業で大きな財を成した筑豊御三家(麻生家・貝島家・安川家)のひとつです。

敷地面積は約2300坪、部屋数は25、複数の蔵などもあり、お屋敷の前には美しい日本庭園が広がります。

伝右衛門の死後 お屋敷は人手に渡りますが、この広大な邸宅と庭園は存続させることは個人ではむづかしく、一度は取り壊しを検討されたこともありました。

その際に存続を求める市民運動がおこり、現在では飯塚市に譲渡されて保存と管理が行われているそうです。

暖炉もある洋風の応接間。テーブルに飾られているのは伝右衛門と柳原白蓮の写真。

柳原白蓮は大正三美人の一人としても数えられた美貌の歌人です。
伝右衛門は妻となった白蓮を迎え入れるために、この邸宅に贅をつくした改修を施しました。

白蓮は皇室とも血縁関係がある生まれ(大正天皇の従妹にあたる)だったので、このお屋敷の中には皇族のみが使うことのできる特別な装飾も施されているそうです。

数年前の朝のドラマでも描かれたので、伝右衛門と白蓮についてはご存知の方も多いかもしれません。

もともとが25歳も歳の差がある結婚、二人の気持ちがすれ違うことも多く、最後は白蓮の駆け落ちにより結婚生活は約10年で破綻します。

聞くところによるとドラマで伝右衛門はあまり好意的な印象では描かれていなかったようですが、炭鉱業を振興させただけではなく、現在の福岡銀行の設立を実現させたり、地域一帯の学校に寄付を行い職工学校や女学校を設立したり、農園を経営し作物の栽培を研究させたりと、さまざまな面で地域に貢献した人物でもあります。

また、太宰府天満宮や宮地嶽神社にも、伝右衛門の奉納した鳥居が今でも残っています。

お台所の近く、電話室のあった場所でこういうものをみつけました。

電話室(お貼りください)
御菓子司 飯塚千鳥屋
電 八三一

白い矢印がさす場所にこの紙が貼ってあったようです。

お屋敷でお菓子が入用なときには千鳥屋に電話して注文していたのでしょう。伝右衛門や白蓮も千鳥屋のお菓子をよく口にしていたのかもしれません。

思いがけなくお菓子に関連する遺物も発見できて嬉しくなりました。

旧伊藤伝右衛門邸 

ところで、このお屋敷は長崎街道沿いに建っています。
長屋門の柵にも「長崎街道」とかかれた札が取り付けてありますね。

周囲には白壁の家が並んでいて、昔の街道の姿を見るようです。

壁にこんな繊細な細工を施した古いお家もありました。

長崎街道の面影

旧伊藤邸のある幸袋から、長崎街道を辿って飯塚宿(今の飯塚市中心部)方面へ向かいます。

このあたりの街道は、現在の国道220号線と一部重なりつつ並走するような道筋です。

昔のままの道幅の通りには、古い町並みが残っていますね。

ブロック塀と同化して、気づかずにうっかり通り過ぎそうになりましたが、飯塚宿に入る手前には「オランダ屋敷跡」と記された石碑も立っていました。
ケンペルやシーボルトはこのあたりに泊まったようです。

いまは駐車場や住宅地になっていて、この石碑以外には屋敷の痕跡はほとんど残っていません。

曩祖八幡宮(のうそはちまんぐう)

先ほどのオランダ屋敷跡の石碑から少し歩くと、曩祖八幡宮の前に出ます。

道に面して大きな鳥居が並んでいるのが目を惹きます。

今建っている鳥居は明治~大正の頃に建てられたものですが、江戸時代に飯塚宿とその周辺を描いた絵をみると、当時もまったく同じように街道に面して鳥居が並んで建っていたことがわかります。

御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰 そして天神地祇。

神社の歴史について、HPを見るとこのように書かれています。

神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。
このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。

社伝では、その跡に作られたのが当社であるといいます。
創建年代は不詳ですが、延文4年(1359年)には社殿が建立されてました。大正13年に県社に昇格しました。

神社歴史 | 曩祖八幡宮

以前訪れた嬉野の地名の由来にも神功皇后の伝説が関連していましたが、飯塚もそうだったのですね。

北部九州には他にも神功皇后に由来する地名が数多くあります。(宇美・筥松・箱崎など)

市街に残る長崎街道の痕跡

曩祖八幡宮からまた少し歩くと、「構へ口跡」と書かれた石碑が建っています。

構へ口というのは宿場町の入り口のことです。

市街中心にある本町商店街のアーケードの通りは、そのまま飯塚宿のあった場所と重なります。
長崎の大村でも宿場町がアーケード街として残っていましたね。

「長崎街道 飯塚宿」の看板もあります。

脇本陣があった場所にはこういう説明書きもありました。

黒ポストというものもありました。
後ろに架かっている説明文によると、九州で初めて郵便制度が整備された区間も長崎街道沿いだったのですね。

アーケードを抜けたところには長崎街道の案内図もあります。

飯塚宿があった場所は、のちの時代に急速に市街化が進んだために建物などは殆ど残っていませんが、何処に何があったかを示す石碑は数多く建てられています。

飯の山

飯塚の地名の由来については曩祖八幡宮で触れましたが、地名の起こりとなったもう一つの場所とされるのが「飯(いい)の山」です。

アーケード街の近所にあるそうなので見に行って見たいと思います。

途中、明正寺というお寺の前には「勢屯り跡」の石碑が建っています。

参勤交代の大名が宿泊した際、出発に先立ち先触(さきふれ)・ひげ奴・金紋・槍持ちなどの整列を整えたところ。
なお明正寺には享保十四年(一七二九)八代将軍吉宗に献上された象が飯塚宿を通った記録があります。

勢屯り跡を過ぎ、もう少し歩いて小高い丘の坂を上ります。

ここが飯の山、確かにご飯を盛ったようなこんもりとした形をしています。
大きな山かと思っていましたが、想像していたよりかわいらしいサイズです。

石碑も建てられています。

史跡 飯の山

昔、明星寺という寺の造営が行われたとき、その開堂供養のまつりに、飯をたくさん炊いたのが残り、それをこの地に集めたところ、飯の塚ができたので、それから飯塚と呼ぶようになったといいます。
また、神功皇后が「いつかまた逢おう」と将兵との別れを惜しまれたのが、地名の起こりであるという話と共に「飯塚」の地名の起源を説明する伝説の地であります。
ここはまた江戸時代、飯塚宿の上茶屋(本陣)のあったところでもあります。

-飯塚市教育委員会-

“ご飯の塚ができた”という伝説は、この土地が昔からお米がたくさん実る豊かな土地だったことを如実に表しているのではないかと思います。

実際、飯塚では立岩遺跡という弥生時代の遺跡も発見されていたり、飯塚とその周辺地域には数多くの古墳も残っています。

説明文にもある通り、この飯の山と向かい合うところには御茶屋(本陣)跡を示す石碑も建てられています。

嘉穂劇場

嘉穂劇場は飯塚市街に残る古い劇場です。

嘉穂劇場の前身「中座」は筑豊地方の炭鉱で働く人々の娯楽施設として1922年(大正10)に開場しました。

節劇(浪花節を丸本歌舞伎の義太夫節のように使う劇)を中心に、歌舞伎、漫才、舞踊、奇術、活動写真などが上演され、客席は炭鉱の労働者とその家族など多くの人で賑わいました。

嘉穂劇場HPより-

最初に建物が建てられたのは大正10年、その後台風で倒壊したり火事で全焼したりしましたが、そのたびに再建されてきた歴史があります。

現在の建物は昭和6年に建てられたもので国の重要有形文化財にも登録されています。

炭鉱業が最盛期だった頃の筑豊地方には約50軒もの芝居小屋があったそうです。

嘉穂劇場には初めて来たのですが、住宅地みたいなところにこの建物が突然現れて「こんなところにあるのか」とちょっと驚きました。

この日は市川海老蔵の「古典へのいざない」という公演が行われていました。歴史ある劇場で観る歌舞伎は一層趣きが増しそうです。

興行のない日でも劇場見学ができるそうなので、次に来るときは内部も観てみたいなと思いました。

飯塚とお菓子

飯塚で様々なお菓子が作られるようになるのは、炭鉱業が盛んになる明治~大正期です。

(前回工場を訪れたひよ子の吉野堂も、明治30年に飯塚で開業、ひよ子を売り出したのは大正元年です。チロルチョコで知られる松尾製菓が現在の田川市で製菓業を開業したのも明治36年でした。)

炭鉱で過酷な肉体労働をする人達には、体力を補い、疲れを癒すためにも甘いお菓子が大変好まれた為です。

その頃の筑豊炭田には150以上の炭鉱があり、日本全国そして外地からもたくさんの炭鉱労働者が集まっていました。

また、飯塚も長崎街道の宿場町=砂糖やお菓子その製法の通り道だったので、お菓子の一大生産地となる素地が近代以前から既にあったことも大きく影響していると思います。

筑豊炭田の石炭生産量も人口も右肩上がりで増えるにつれて、お菓子の消費量も一層高まり、飯塚だけでなく筑豊一帯で製菓業はますます盛んになります。

千鳥屋本家

飯塚の老舗のお菓子屋さんを訪れてみたいと思います。

一軒目は旧伊藤邸に電話番号の貼り紙があった千鳥屋です。

白壁の純和風の店舗がとても素敵です。
金文字の看板にも老舗ならではの重厚感があります。

お店の横には、橋の欄干らしきものがありました。

らんかんに みだれ飛ぶかな 千鳥跡
原田青夜こと利一郎

飯塚川にかかっていた栄橋は昭和初期に造られ千鳥屋本店横の橋のらんかん(親柱)には、上部に銅板装飾の千鳥のマークが刻まれております。
平成二十三年四月

今はなくなっていますが、昔はここに飯塚川という川があり、橋がかかっていたようです。

 

天正十八年(1590)
九州北部を支配していた龍造寺隆信の子・政家が病弱のため、家臣の鍋島直茂(鍋島藩祖)に領地を譲り、太俣郷(現・佐賀県佐賀郡久保田町)に隠居。家臣の原田家も政家にしたがって移住。やがて武家の内職として酒饅頭などの菓子を作り、生計を立てる。

寛永七年(1630)
原田家が佐賀県佐賀郡久保田町に「松月堂」の屋号で本格的に丸ボーロ、カステラを中心としたお菓子屋を始める。



昭和二年(1927)
福岡県嘉穂郡飯塚町住吉の中央市場(現・飯塚市本町の永楽通商店街)入り口に松月堂の飯塚支店として「千鳥屋」を開店。千鳥饅頭、丸ボーロ、カステラの三品を専門に製造販売。

千鳥屋本家 沿革より-

千鳥屋のHPを見ると、ご先祖は戦国大名 龍造寺家に仕えるお武家さんだったとのこと。千鳥屋の前身の松月堂の創業は寛永七年(1630)、ということは今年は創業389年目ということになります。

お店の歴史の古さにも驚きますが、もとは佐賀のお菓子屋さんだったことも意外でした。久保田は以前訪れた小城や牛津の隣にあり、ここも長崎街道が通っていたまちです。

松月堂が飯塚に支店を出した昭和2年頃は、筑豊炭田が日本最大規模の炭田となり、ちょうど最盛期を迎えていた時期にあたります。

その後、松月堂は昭和14年に閉じられ、以後飯塚の千鳥屋が本店となりました。
(確かなことは分からないのであくまで推測ですが、本拠地を移すほどに当時の飯塚での売上げが大きかったのかもしれません。)

なお現在は、飯塚が本拠地のこの千鳥屋本家と、福岡市博多区が本拠地の千鳥饅頭総本舗の2社に分かれている模様です。

この飯塚の紀行を行うまで、私も千鳥屋が2社あることに気付いていなかったのですが、現在福岡で流通している千鳥饅頭も実は2種類あるということになりますね…。

店内には和菓子の他に洋菓子(特に焼き菓子)も色々並んでいます。
チロリアンもこの店の看板商品です。カステラ、丸ボーロも今も売られています。

ここでは千鳥饅頭などを購入しました。

千鳥屋本家

さかえ屋

二軒目はさかえ屋の飯塚本店です。

創業は1949年。さかえ屋という店名は、実は先ほど出てきた栄橋に由来しているそうです。

この日本家屋は、昔おかき工場として使われていた建物を移築したものだそうです。

現在は喫茶スペースとギャラリーになっていて、お菓子や飲み物を楽しんだり休憩できるようになっています。

写真左奥に見えているのが店舗です。

店舗の前にはシュガーロードの由来を記した看板もありました。

お店に入ると、色々な種類の和菓子、洋菓子、さらにアイスなどたくさんの商品が並んでいます。

ケーキ類の並んだショーケースの中に、その名も「シュガーロードシュー」というシュークリームがあるのを発見、思わず買ってしまいました。

お菓子試食タイム

飯塚で買ってきたお菓子を試食してみたいと思います!

千鳥饅頭

まずは千鳥屋の千鳥饅頭です。

創業三百七十余年来、守り続ける伝統のカステラと丸ボーロから生まれた千鳥屋の代表菓です。

口ほどけのよいやわらかな舌ざわりの白餡と風味よい焼き皮の上品な甘さ。凛とした姿は、時代を越えて皆様に愛され続けております。

千鳥屋HPより-

お饅頭には千鳥の焼き印が捺されています。

皮はやや凹凸がある見た目で、特に皮の表面部分はしっとり感よりサクッと感があります。いわれてみれば確かに丸ぼうろにも通じる食感があるような…。白あんはなめらかでやさしい甘さです。

この千鳥饅頭もそうですが、長い間愛され続けるお菓子にはシンプルなのに飽きのこない味わいがあると思います。

千鳥サブレ

店頭で見つけたので千鳥饅頭と一緒に買った商品です。

千鳥屋にサブレがあるのは知りませんでした。商品名も筆書きで包装も何だか和風の趣きです。

このサブレは何と言っても形がかわいいです。食べる前に是非この曲線美も鑑賞していただきたいと思います。

さっくりと焼き上げられていて素朴な味わいです。

すくのかめ

次はさかえ屋の「すくのかめ」です。

今は「なんばん往来」がいち推し商品のようですが、私が小さい頃は、さかえ屋といえばすくのかめでした。

このお菓子の製造開始は1957年、名前の由来は、弥生時代の遺跡から出土した須玖式土器らしいです。

かめの形の最中のなかには、餡と求肥が入っています。

定番の味は小豆と抹茶の2種、季節によって限定商品もあります。
今回は抹茶と柚子を購入しました。

抹茶は見た目も美しい緑色の抹茶餡入り、期間限定の柚子味には細かく刻んだ柚子の皮も入っていてさわやかな風味が楽しめました。

シュガーロードシュー

名前に釣られて買ってしまったこの商品、最近作られるようになったものだと思いますが、洋菓子製造にも力を入れているさかえ屋さんなだけあって、すごくおいしいシュークリームでした。

皮はしっかり固め、大きな粒状の砂糖がまぶして焼いてあるのでザクザクした食感で、バニラの黒い粒々の入ったカスタードが入っています。

限られた店舗だけで取り扱っている商品かもしれません。

今回の紀行マップ

飯塚はこれまであまり訪れたことがなかったのですが、こうやって歩いてみると、古代から近代までたくさんの歴史の痕跡が残っていて、とても面白い場所だと思いました。

また、数多くの銘菓があるのも印象的でした。飯塚のお菓子文化は明治大正以降に一気に花開いた感があります。

飯塚だけではなく、近隣の直方には「成金饅頭」、田川には「黒ダイヤ」と、名前からも往時の筑豊炭田の盛況ぶりが伺われる銘菓も残っています。

どちらもまだ食べたことがないので、次回筑豊方面に出掛けた際に是非食べてみたいです。

帰りは飯塚駅から福北ゆたか線に乗って帰ってきました。
これは飯塚駅のプラットホームにあったカッパ像です。

次回はいよいよシュガーロードの終点、小倉を訪れます。
それではまた。

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