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by よしだ よしだ

【連載】シュガーロード紀行 -捌- 博多・大宰府

【連載】シュガーロード紀行 -捌- 博多・大宰府

ごきげんよう よしだです。

この連載は、その昔 砂糖が運ばれていったことから「シュガーロード」とも呼ばれる長崎街道を辿りつつ、沿道に今も残る銘菓を中心にその土地ならではのお菓子を食べ歩こうという企画です。

今回からは福岡県に入ります。
前回に引き続き、長崎街道からはちょっと離れて、唐津街道を進みます。

海に向かってひらけた古来からの貿易都市 博多と、古くは「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる政庁が置かれていた大宰府を取り上げます。

鴻臚館と大宰府官道

北部九州の沿岸部は、古代よりさまざまな異国の文化が入ってきた場所であると同時に、神功皇后の三韓征伐・刀伊の入寇・二度にわたる元寇・秀吉による文禄・慶長の役など、時に海外への侵攻、時に外敵からの攻防の拠点となり、外交の拠点でもあった場所です。

この紀行でも、平戸や唐津など、古くからそういった役割を担ってきた場所を取り上げてきましたが、博多はそれらの中でも特に規模が大きく重要な外交の窓口が置かれていました。

それが、現代で言うところの迎賓館にあたる鴻臚館です。
海外からの使節団や貿易商のための宿泊施設でありおもてなしの場でした。

鴻臚館は京・難波・筑紫の3か所にあったとの記録が残っていますが、実際に遺構が発見されて存在が確認されているのは筑紫鴻臚館だけだそうです。

筑紫鴻臚館の本格的な発掘は1999年の平和台球場の解体工事を契機に始まり、それ以降、現在も発掘調査が続けられています。

ということで、鴻臚館跡を見に来てみました。
今では一見するとただの原っぱです。
写真左側に見えている黄色い屋根の建物は、このあと訪れる鴻臚館跡展示館です。

この土地の来歴をみると大変面白く、

古代には鴻臚館

関ヶ原の合戦後には藩主となった黒田長政が福岡城を築城

明治に入ると県庁に、
その後陸軍駐屯地となって城の建物はほぼ解体

戦後は一時GHQが接収、
1948年福岡で開催される国体のために駐屯地跡に競技場を建設、
翌年その一部を改修して平和台球場に

といった感じで、時代の変遷とともに様々なものがつくられてきた場所です。

展示館は発掘された鴻臚館(南館)跡の上を覆うように建てられていて、遺構や出土品を間近で見学できるようになっています。

中に入るとこんな感じ。柱の跡をもとに宿坊の建物も復元されています。

ここから出土したのは建物に使われていた瓦や、交易品とみられるさまざまな産地の陶磁器(遠くはペルシア産のものも)、当時の食器、木簡など様々です。

これは館内にあった展示パネル。

鴻臚館から大宰府までは、上図のように、ほぼ直線状に整備された官道で結ばれていました。しかもその道幅は約7~10m以上もあったそうです。
近年、この官道の跡も発掘されてその存在が確認されています。
「大宰府に続く官道か 福岡の史跡で側溝跡出土 」日本経済新聞 2017/03/01

外国からの使節を迎える道だったので、国威を示すために一層立派な道路にしたとも考えられています。

道幅もあまり広くなく、さらに城下町やその周辺では意図的に曲がり角を多用したり見通しの悪い作りにしていた江戸時代の街道とはとても対照的です。

お菓子の神様の神社

以前太宰府天満宮に行ったときに知ったのですが、ここにはお菓子の神様を祀った神社もあります。

今回記事を書くにあたり、改めて行ってみることにしました。

まずは本殿に参拝します。
国内外の観光客も含め、この日もたくさんの人が参拝していました。

本殿を一歩出ると人通りもぐっと減り、周囲の木立から蝉の声が一段と高く聞こえてきます。

天満宮本殿の周囲には、さまざまな神様を祀った末社や分社が多数ありますが、今回訪れるお菓子の神様の神社もその中の一つです。

こちらがその神社。菓祖中島神社です。

お社の前に建てられた由来文を読んでみましょう。

御祭神は製菓道の守護神として崇敬される田道間守命(たじまもりのみこと)である。
「日本書紀」には田道間守命が第十一代垂仁天皇より「非時香果(ときじくのかぐのこのみ)」を探し求めるよう命じられたとの記述がある。「非時(ときじく)」とは時(季節)を選ばずの意で、「香果(かぐのこのみ)」とは香り高い果実の意を表す。

田道間守命は遥々海を渡り幾多の困難と苦労を乗り越えてついに常世国(とこよのくに)で「非時香果」を探し出し急ぎ日本へ戻った。

しかし勅命を受けて十年の歳月が経過しており垂仁天皇は田道間守命が帰国する一年前に残念ながら崩御されていた。そこで田道間守命は垂仁天皇の御陵に「非時香果」を献上していつまでも嘆き悲しみ哭泣しとうとう死に絶えてしまった。

(中略)

田道間守命が持ち帰った「非時香果」は記紀には「今橘(たちばな)という」と記されている。
砂糖もなく果物やその加工品などを「菓」と呼んでいた古にもたらされた菓子の起源とも伝えられる「非時香果」の逸話により田道間守命が菓祖とされ崇められてきたのである。

当宮の中島神社は昭和二十九年七月 九州菓子業の守護神として製菓業に携わる多くの方々の希望により、文化の聖地たる当宮の境内に勧請され九州分社として創建された神社である。

太宰府天満宮作務所

日本書紀(の特に序盤部分)は、ほぼ神話の時代の話なので正確な年代を確定できない部分も多いのですが、垂仁天皇は西暦70年頃まで在位していたと考えられます。
(参考:天皇在位年と西暦との対照


画像は Wikipedia 「田道間守」より。

よって、田道間守命が非時香果を探す旅に出たのは西暦60年頃だったと推測できます。(ちなみに、のちに志賀島で出土する金印が倭奴国の王に贈られたとされるのが西暦57年頃の出来事です。)

こちらが中島神社のお社。
本社は兵庫県豊岡市にあり、分社は大宰府だけでなく日本各地にあるそうです。

鳥居には奉納者として田川市の松尾製菓さんのお名前が刻まれています。
チロルチョコの会社ですね。

周囲の石の柵には佐賀の老舗菓子店の経営者のお名前もあります。

寄進者を記した看板にも、福岡市内をはじめ北九州・久留米・佐賀のお菓子屋さんが名前を連ねていました。

お石茶屋

天満宮の本殿裏、一番奥にある茶屋がお石茶屋です。

大正時代に創業した老舗で、お店をひらいたお石さんは筑前三美人の一人に数えられるほどの美人さんだったそうです。

店舗も昔ながらの風情ある建物です。
個人的にこのお店の雰囲気が気に入ってて、大宰府に行ったときにはだいたいここでひと休みしています。

お店ではうどんやそば、梅ヶ枝餅が頂けます。

今回はお抹茶と梅ヶ枝餅のセットを頂きました。

お餅は焼きたてが出てくるので皮がパリパリで香ばしいです。
暑い日だったので冷たいお抹茶で。みぞれ状の氷が入っていて、お餅と一緒に頂くととても美味しかったです。

お店の前には、歌人 吉井勇の歌碑もあります。
“大宰府の お石の茶屋に餅くへば 旅の愁ひも しばし忘れむ”

宝満宮 参拝隧道

梅ヶ枝餅の変遷

大村・諫早の回で一口香の紹介の際にもちょっと触れましたが、一口香や梅ヶ枝餅のルーツと考えられるのが中国の空心餅だそうです。

検索してみたら、キューピー3分クッキングのレシピでも紹介されていました。

もっとも、空心餅は甘いお菓子ではなく、中に甘辛く煮た挽肉や野菜を詰めて食べる料理で、皮の部分も小麦粉を練って作られるそうなので、お餅というよりは何だかハンバーガー中国版って感じもします。

大宰府における梅ヶ枝餅の起こりとして広く知られているのは以下の逸話です。

菅原道真が大宰府へ権帥として左遷され悄然としていた時に、安楽寺の門前で老婆が餅を売っていた。その老婆が元気を出して欲しいと道真に餅を供し、その餅が道真の好物になった。後に道真の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが始まりとされている。

別の説では、菅原道真が左遷直後軟禁状態で、食事もままならなかったおり、老婆が道真が軟禁されていた部屋の格子ごしに餅を差し入れする際、手では届かないため梅の枝の先に刺して差し入れたというのが由来とされており、絵巻にものこっている。

wikipedia「梅ヶ枝餅」

一説によれば、老婆が差し入れたのは粟餅だったと伝えられています。雑穀が多く食べられていた平安時代は、餅も雑穀を使って作ったものが主流だったからでしょう。
なお、現在の梅ヶ枝餅の皮はモチ米とうるち米の粉を主原料に作られています。

あんこが入るようになったのは小豆や砂糖が広く流通するようになった時代からで、それ以前はお味噌などが入っていたようです。

太宰府名物として盛んにつくられるようになったのは明治期以降だそうです。
現在「梅ヶ枝餅」の名称は、生産者全員が加盟する梅ヶ枝餅協同組合が所有する登録商標となっていて、販売価格の統一も行われています。
お店により原料の配合や焼き方に違いがあるので、味や食感はそれぞれ微妙に異なりますが、どのお店でも同じ値段で売られています。

また、毎月25日(天神様の日)限定で、よもぎ入りの梅ヶ枝餅も販売されているそうです。

承天寺の御饅頭所之碑

鴻臚館は、永昌二年(1047)に放火事件が起こったという記録を最後に、史料の上からは姿を消します。

しかし、中国(当時は宋)と博多との交易はその後も盛んに続きます。
博多区御供所町にある承天寺は、そんな日宋貿易が盛んに行われていた時期に、宋から帰国した聖一国師によって開かれたお寺です。

仁治三年(1242)、博多祇園山笠の創始者といわれる聖一国師によって開山されました。

建立に際しては、宋からの帰化人で貿易商の謝国明が聖一国師を助け、大宰少弐・藤原資頼が私財を施すなど金銭的に援助しました。

境内には博多織の始祖満田弥三右衛門の碑や聖一国師が伝えたとされる饂飩・蕎麦や饅頭発祥の記念碑がある他、墓所には新派劇の創始者川上音二郎の墓があります。(参拝の方はお入りいただけます。)

門前の案内文より

これが御饅頭所の碑。
隣にあるのは饂飩蕎麦発祥之地の碑です。

碑の前にも案内板が設置されていました。

仁治2年(1241)、中国の宋より帰国した聖一国師が、ある日、禅の布教に出向いた先でとある茶店に立ち寄ったところ、茶店の主人に心づくしの歓待を受けました。
それに喜んだ聖一国師は、南宋から持ち帰った饅頭の製法を教え、「御饅頭所」の看板まで書き与えました。

これにより、博多の地が饅頭発祥の地とされています、
看板は現存し、東京の「虎屋」が所蔵。その古い複製が博多松屋に伝えられています。

また、饂飩蕎麦発祥之地の碑についての解説の中には、饂飩・蕎麦に加え羊羹も聖一国師によって伝えられたと書かれています。聖一国師は偉大です。

御饅頭所の碑自体は比較的新しく、建立されたのは2008年で福岡市菓子協同組合によって建てられたものだそうです。

豊臣秀吉と神屋宗湛・太閤町割・利休釜掛之松

その後、二度にわたる元寇など大きな困難に見舞われた時期もありましたが、室町期の博多は中国だけでなく東南アジア方面とも交易が活発になり、一層の繁栄を続けました。

戦国時代にはその繁栄ゆえに、我がものにしようとする周辺の諸大名の間で争奪戦が繰り広げられ、結果 博多一帯は焼け野原となってしまいます。

荒廃した博多のまちが再生される契機となったのが、九州平定のためにやってきた豊臣秀吉が黒田官兵衛らに命じて行った区画整備、「太閤町割」でした。

太閤町割の際に資金の援助を行ったのが貿易で巨財をなした豪商 神屋宗湛です。

神屋宗湛といえば、以前【まち歩き】唐津街道を歩く-福岡編- で、宗湛の茶室の庭(現在は別の場所に復元)を訪れました。

この茶室にも秀吉は訪れています。

東区馬出にある九州大学医学部の構内にも、秀吉や宗湛らが茶を楽しんだ場所が残っています。

「利休釜掛之松」という名前で、ここにも説明書きの看板が建てられています。

天正十五年(1587年)、九州平定を終え筥崎宮に滞在した豊臣秀吉は、小寺休夢(黒田官兵衛の叔父)らと和歌を詠じ、茶人の千利休や博多の豪商神屋宗湛らと茶会を催しました。

その際、利休は秀吉の命により、この地の松に鎖を吊して雲竜の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉を集めて湯を沸かしたと伝えられています。

「白砂の上に散り敷いた松葉を集めて」とある通り、昔このあたりは海沿いの砂地で松林が広がっていたと考えられます。

↑これも同じ看板にあった「宗湛献茶の図」。

なお、この頃の茶会では、果物や餅、根菜・茸類のお煮しめなどがお茶のお供だったようです。お茶の席でお菓子が楽しまれるようになるのはもう少し先のことです。

松の下には小さな井戸の跡らしきものもあります。

この時利休たちが松の下で行った茶会が、のちに野外で茶を楽しむ「野点(のだて)」の始まりになったそうです。

筥崎宮に残る千利休の石灯篭

秀吉の博多滞在の際にはその宿舎ともなった筥崎宮ですが、境内には千利休が奉納した石灯篭が今でも残っているそうです。

ただしこの石灯篭はいつでも見ることができるわけではなく、5月のさつき大祭の日と9月の放生会の期間のみ公開されるとのこと。

先日、ちょうど放生会の開かれる時期だったので、お参りついでに石灯篭を見に行ってみることにしました。

放生会期間中の参道や境内はすごい人出です。
参拝のあと、ふだんは解放されていない回廊内側も拝観しました。

石灯篭は本殿の前にありました。
その横に何やら古そうな石の碑が3つ並んでいますが、彫ってある字は大部分が薄れてしまって不鮮明になっています。

これは偶然目にすることが出来たのですが、筥崎宮菓道敬神会というものがあるらしく、市内の菓子店から様々なお菓子が献上されていました。

まるでお神輿のようにお菓子の箱が積まれています。
にわか煎餅やひよ子、千鳥饅頭、鶴の子などが見えますね。

福岡藩の御菓子司 松屋

江戸時代の福岡藩にも、御菓子司をつとめた菓子屋が複数存在しました。
現在も営業を続ける菓子屋の一つが松屋です。

初代松屋当主、松屋利右衛門は長崎の出島を訪れた際、鶏卵素麺の製法を伝授されたと言われています。

のち博多へ戻った松屋利右衛門は鶏卵素麺の製造販売を開始、時は江戸時代延宝元年(1673年)の事でした。

この延宝年間には福岡藩主黒田光之に鶏卵素麺を献上、以後黒田藩の御用菓子商となり現在に至っています。

松屋HPより引用

現在は西区橋本に本店と工場があります。
建物の店名の横には黒田家の家紋である藤巴も掲げられています。

ここでは鶏卵素麺を購入しました。

お菓子試食タイム

恒例のお菓子試食タイムです。
松屋さんで購入した鶏卵素麺を食べてみたいと思います。

名前だけは以前から知っていたのですが、実はこのお菓子を食べるのは初めてです。

試食に参加してくれた他のスタッフにも聞いてみましたが、全員「食べたことがない」「こんなお菓子があるのも知らなかった」との返答でした…。

このお菓子のルーツは、ポルトガルの「フィオス・デ・オヴォス」(fios de ovos、卵の糸)というお菓子だそうです。

「肥前の菓子」には鶏卵素麺についてこう書かれています。

煮えた砂糖の中に、じょうごのような器具を使って卵黄を流し込み、素麺のように細く固めた。
(中略)
福岡県の松屋菓子舗が約四百年前に長崎で手法を学び、黒田藩の指導や経済支援を受け秘伝を守ってきた。やはり上流階級が好んで食した。

原材料の表記を見ると、卵と砂糖だけ!
保存料など入っていないので賞味期間はやや短かめです。

この鮮やかな黄色の色合いを見て思い出すのは平戸のカスドースです。
どちらもポルトガルに由来し、卵と砂糖をふんだんに使うことや、熱した糖蜜にくぐらせることなど、共通点の多い菓子と言えます。

素麺の束のような固まりを一口大に切って頂きます。

食べた感想は…「うーん、甘い」の一言です。
もともとお茶の席で食されてきたお菓子なので、やはり濃茶などと一緒に少量を頂くのが一番美味しい食べ方のようです。

江戸時代にも鶏卵は食べられてはいましたが、薬のような扱いの高級食材だったので、原料となる大量の卵を確保すること自体が容易ではなかったと思われます。
鶏卵素麺の製法は福岡藩以外にも伝わった形跡がありますが、こういった原料調達の困難さもあって製造が途絶えてしまった所が多かったようです。

福岡藩では大名家の支援や保護があったからこそ、かろうじて作り続けることのできたお菓子だったのではと思います。

今回の紀行マップ

よく「福岡市内には歴史的な観光名所がない」みたいなことを言われます。

しかしこれは、博多という都市が活発な生き物のように絶えず活動を続け、史跡が史跡として残る間もないほど、旧来の歴史の上につねに新しい歴史が上書き保存されるように変化を重ねているからではないか、と私は思っています。

福岡市博物館に博多区付近の地層の断面をそのまま運んできて展示したコーナーがあるのですが、古代の地層にはじまり、中世の貿易で取引された陶器のかけら、戦乱の世に焼け野原になった際の焦土、江戸時代の人々が歩いた道の痕跡や建物の基礎の跡などが、数メートルの土の堆積の中にまるでレイヤーのように幾層も積み重なっている様を見ることが出来ます。

また、現在の博多には、昔ながらの伝統的なお菓子に加え、近年作られるようになった新しいみやげ菓子も含めてたくさんのお菓子があります。
そのため今回は、正直取り上げるお菓子を絞るのにかなり迷ったのですが、シュガーロードとも関連のあるお菓子ということで、ややマイナーではありますが鶏卵素麺を取り上げました。

今回取り上げきれなかった博多のお菓子については、また別の機会に詳しく調べてみたいと思います。

(↑これは福岡城三の丸スクエアにある如水庵で売られている筑紫もち入りのソフト。鴻臚館跡を見に行った後に食べました。)

古代~近世の歴史と、それにまつわるお菓子にスポットを当てた今回の大宰府・博多の紀行でしたが、次回の紀行では、近代明治以降にお菓子の一大産地・消費地となった飯塚を訪れたいと思います。

もとは福岡県発祥なのに東京土産として有名になってしまったあのお菓子の工場にも潜入予定です。

それではまた。

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