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【連載】シュガーロード紀行-弐-諫早・大村

【連載】シュガーロード紀行-弐-諫早・大村

ごきげんよう よしだです。

この連載は、かつて砂糖が運ばれていったことから「シュガーロード」とも呼ばれる長崎街道を辿りつつ、沿道に今も残る銘菓を中心にその土地ならではのお菓子を食べ歩こうという企画です。

バックナンバーはこちら → -壱- 長崎

日見宿・矢上宿を経た長崎街道は、永昌宿で有明海側を通るルート(多良通)と大村湾側を通るルート(彼杵通)に枝分かれします。

今回は、永昌宿、大村宿にあたる諫早と大村を訪れたいと思います。

大村


白とピンクの配色もかわいい駅舎

7月某日、大村にやってまいりました。
(宿場の順序でいくと諫早→大村の順になるのですが、先に大村から訪れたのは行程の都合です。)

鉄道を使用した場合のアクセスは、長崎行き特急かもめで博多から諫早まで約2時間、諫早からは大村線に乗り換えて快速で約10分で大村に到着します。

ちなみに私は大村へ来たのは今回が初めてです。


これは駅にあった天正少年使節団の記念撮影用看板

大村(大村藩)の歴史は古く、平安時代の貴族・海賊として有名な藤原純友の子孫が東彼杵荘大村に入り定住したのが起源とも言われます。

戦国時代の領主であった大村純忠は、日本ではじめてのキリシタン大名となり、大友宗麟・有馬晴信らと共に天正遣欧少年使節を派遣しました。市内にある長崎空港の近くには使節の出発400年を記念して建てられた銅像もあります。
(このため大村にはキリシタン関連史跡も数多く残っているのですが、その話はまた別の機会に)

大村氏は江戸時代の終わりまでこの地を治めつづけ、大村は街道沿いの城下町として栄えました。明治維新後は大村県となったのち長崎県に統合されました。

アーケード街として残る長崎街道

大村駅を出てしばらく歩くと中央商店街があります。

ここは長崎街道大村宿だった通りが、そのままアーケード街になっている場所です。
アーケード街の中にも「大村宿」をPRする物が色々とあります。

本陣(=大名など身分の高い人専用の宿)があった場所は、現在の浜屋のあるあたりだったといわれます。


左側の建物が浜屋


アーケード内には長崎街道をテーマにした陶板も


これもアーケード内にあった看板

看板内に記述のある「NHKドラマ」は2010年に放送された龍馬伝と思われます。大村市内でもロケが行われたそうです。

鶴亀橋も今でも残っています。アーケードを抜けしばらく歩いたところを流れる内田川に架かっています。

大村公園(玖島城跡)

大村氏の居城が玖島城です。現在は大村公園として整備されています。

「海城」と呼ばれる、その名の通り海に面した地形の上に築かれた城の造りで、堀には海水が使われていました。
上の写真左側、松の木の向こうに見えている青い水面が海です。

ここは花菖蒲の名所として知られ、花のシーズンの6月にはたくさんの見物客でにぎわうそうです。夏のこの時期には葉だけが青々と茂っていました。
写真右側上部の石垣の上にある白壁の建物は櫓です。

大村神社

玖島城本丸跡には大村神社があります。
大村藩歴代の藩主、その祖先とされる藤原純友なども祀られています。

もともとがお城だっただけあって、本丸まで続く大きな石の階段や周りを取り囲む白壁も立派な作りです。

境内には「オオムラザクラ」というとても珍しい桜もあります。

”すべての花が2段咲きで、がく片10枚、花びらは少ないもので60枚、多い物は200枚にもなります。” (大村公園のパンフレットより引用)

6月の花菖蒲と並んで4月の桜の時期も、見物客で大変賑わうのだそうです。

新蔵波止跡・大村藩御船蔵跡

城跡の周囲を海に沿って歩いてみたいと思います。

【新蔵波止跡】

「波止」は海に突き出す形で築いた埠頭のことで、ここは藩の船着き場の一つとして使われた場所です。草に覆われてはいますが階段状の石組みなど当時の姿がそのまま残っています。

お城のすぐそばが海っていいですね。お城+海でかっこよさも3割増しって感じですが海があることで攻め落とされにくいという利点もありました。
かつては防御力を高めるため海の中に捨て堀もあったと考えられています。


波止跡の先端から見る大村湾

【大村藩御船蔵跡】

おなじ海岸線をさらに進むと、御船蔵跡があります。

“ここには、殿様の使用した御座船をはじめ、藩の船が格納されました。
(中略)
船蔵は、藩にとって需要な藩船を格納する場所であり、軍事面の備えのみでなく、交通産業面等でも藩を支えた施設でした。” (看板の説明書きより)

先ほどの新蔵波止跡と比べるとさらに奥まった場所にあるので、波が殆どないこともあって、石垣の風化も少なく当時の姿をほぼそのままにとどめています。

訪れたのがちょうど潮の引いた時間帯だったこともあると思いますが、水深がかなり浅くなるようです。

龍神社

御船蔵跡からさらに歩くと、橋でつながった小さい島があります。

島全体が木で覆われていて、奥に龍神様(八大龍王)を祀った「龍神社」というお社があります。


鳥居の扁額が独特な青い色をしているのも綺麗です。

神社だけど観音様も一緒に祀ってあったりします。
(明治時代前までは、こういった感じで神様も仏様も同じ場所で一緒に祀るということは広く行れていました。)

神社のお掃除をされている地元の方がちょうどいらっしゃって、色々とお話を聞くことが出来ました。

ここは昔は今のような橋は無く、船を使うか潮が引いたときだけ渡れる島だったこと。

大村藩は大村純忠がキリシタンに改宗した際、それまで信仰していた藩内の神社やお寺を弾圧したので、壊されたり廃されたところも多々あって、それ以前の古い寺社仏閣はあまり残っていないこと。

昔は海がすごく綺麗だったけど、今は生活排水などで水がよどんできてしまって昔ほど綺麗ではなくなったこと、など…。


水辺に生えている黄色い花をつけた木はハマボウ

「昔ほどではない」とのことでしたが、島の周りの波打ち際の水はとても澄んでいて綺麗でした。

当日はかなり気温が高い日で体力的にバテてしまったこともあり、龍神社にお参りした後はもと来た道を引き返したのですが、さらに海岸線を進むと「玖島崎古墳群」という遺構もあるそうです。

7世紀ごろにつくられたものだそうですが、その頃からこの玖島周辺の場所は、古墳を築かせるだけの大きな権力を持った人が住んでいた特別な場所だったのでしょう。

大村寿司

せっかく大村に来たので、お昼ご飯は大村寿司を食べたいと思います。
ご飯と具が層のように重なり、四角形に切り分けられた形が特徴的な大村の郷土料理です。

大村寿司の起源にも大村氏が関係しています。

1474年(文明6年)、島原半島の領主有馬貴純が大村領に侵攻した。当時大村を支配していた大村氏の当主大村純伊は大敗して松浦郡加唐島(現佐賀県唐津市)に逃れ、後に少弐氏等の支援を得て反攻、1480年(文明12年)に大村に帰還することができた。

この時、領主の帰還を喜んだ領民らが歓迎のために食事を振舞おうとしたが食器が足らず、浅い木箱(もろぶた)に炊きたての米飯を広げて魚の切り身や野菜のみじん切りなどを乗せ、さらにそれを挟むように飯や具を乗せた押し寿司を作り、兵が脇差しでこれを四角に切って食べたのが現在の大村寿司の発祥とされている。

Wikipedia「大村寿司」より )

この日頂いたのは、鶴亀橋のすぐそばにある「やまと」さんの大村寿司です。
お店は明治時代の創業とのこと。

ここのお寿司の具には奈良漬けも入っていて、ちょっと珍しいなと思いました。

店頭にはお持ち帰り用の大村寿司もありました。長崎空港でも人気のお弁当・お土産として複数のお店の大村寿司が売られているようです。

大村角ずしやまと

へこはずしおこし

大村に古くからあるお菓子が「へこはずしおこし」です。ちょっと変わった名前ですがこういった由来があるようです。

へこはずし」の名称は、男性の下着を「へこ」と言って、あまりのうまさに、その「へこ」がはずれていることにも気づかなかったという故事からついたといわれています。

大村市HP  へこはずしおこしより引用 )


現代で言ってみれば「パンツが脱げていることにも気づかないくらい夢中になってしまうおいしさのおこし」ということでしょうか。

約300年前から製法を変えることなく作られているとのことで、昔ながらの姿をとどめたお菓子と言えます。

現在大村市内で製造をつづけているおこし屋さんは「兵児葉寿司おこし本舗」さんのみになっている模様です。

実店舗のある場所がちょっと遠かったので、今回は大村駅前にある観光案内所のお土産売り場でへこはずしおこしを購入しました。


これは観光案内所の前にいた猫

諫早

大村駅から電車に乗って再び諫早駅まで戻ってきました。

諫早は、もとは佐賀藩諫早領と呼ばれ、代々諫早氏が治めてきた土地です。
大村も諫早も、その土地を治めていた領主の名前が現在の自治体の名前にも引き継がれていますね。

諫早にあったのが永昌宿ですが、ここは長崎街道の分岐点だけでなく、島原街道の始点でもあった、いわば交通の要衝だった場所でした。

永昌代官所跡

永昌宿の代官所の跡を示す石碑があるとのことで見に行ってみました。
諫早駅から5分ほど歩いた道路沿いに、その石碑は立っていました。

かなり控えめな石碑だったので気付かずに一度通り過ぎてしまいました…。

googlemapにも長崎街道の表記があります。
長崎街道に面した永昌宿の入り口にあたるところに代官所があったそうです。

諫早神社(四面宮)

諫早市街を横切る長崎街道は、多良宿(現在の佐賀県藤津郡太良町)方面へ向かうことから多良通と呼ばれていました。

この多良通の始点とされるのが四面宮=今の諫早神社の前にある「四面河原の飛び石」です。


諫早神社付近から本明川を見たところ 川を横切るように並んでいる石が「四面河原の飛び石」

四面宮の縁起は聖武天皇の時代までさかのぼり、当時この地に立ち寄った行基が石祠を建てたのが始まりとされます。お坊さんが建立したことからもうかがえるように、ここも昔は神様も仏様も一緒に祀られていた場所でした。

明治元年に発せられた神仏分離令により、一緒に祀られていた仏様は別のお寺に分離され、四面宮は「諫早神社」と改称されました。

境内には行基のお手植えとも伝えられているクスノキの巨木が多数あり、「諫早神社のクス群」として県の天然記念物にも指定されているそうです。

とにかく大きい。

神社巡りをしていると、こういった巨大なご神木によく遭遇します。いつか機会があれば巨木まとめもしてみたいと思います。

諫早の眼鏡橋

本明川沿いの道をさらに進んでいくと、諫早城跡があります。

諫早城跡は現在公園として整備されていて、その入口にあるのが眼鏡橋です。

「眼鏡橋」と言えば、長崎市内のものが有名ですが、諫早にもあるのですね。
長崎の眼鏡橋と比べても諫早の眼鏡橋のほうが大きいです。

この橋が造られたのは1839年(天保10年)。石を削る機械などない時代なので全て人の手で作られた石橋ですが、フォルムもとても美しいです。また、何度川が氾濫しても流されることはなかったといいます。

もとは本明川に架けられていましたが、昭和32年に起こった諫早大水害の後、昭和35年にこの場所に移築されたそうです。

この橋は石橋としては初めて国の重要文化財にも指定されています。

菓秀苑 森長

諫早にも老舗の菓子店があるとのことで、訪れてみることにしました。

「菓秀苑 森長」は、江戸時代 寛政五年(1793年)創業、お店の建物も時代を感じさせる日本家屋で趣きがあります。

公式HPによると創業時から2013年までは「森長おこし」という店名だったそうです。現在はおこし以外にもカステラやパイ、各種和菓子など販売されています。店頭で見た「半熟カステラ」もすごくおいしそうで気になりました…。

ここでもおこしを購入しました。

菓秀苑 森長

なぜ諫早でおこしが作られたのか

「肥前の菓子」のおこしについてのページを見ると、
“米文化が色濃い中国南部で、余剰米を活用する方法として考案されたという”
とあります。

千年以上前に書かれた日本の文献にも「おこし」の名が出てくるので、かなり古くから日本にも伝わっていたことがわかっています。

唐津や小城など、北部九州には他にもおこしが名産品として残る地域があるのですが、「肥前の菓子」ではそれらの地域と比べると、諫早のおこしはやや特殊だと述べられています。

“他の肥前のおこしが名所や寺社などに因んで名産となったことと異なり、原料を生かしたモノづくりに取り組んだ例であり、昔の一村一品運動ともいえるような起源をもっている”

先述の通り諫早は佐賀藩の一部でした。

江戸時代、佐賀藩は米の収穫量を増やすため積極的に治水・干拓事業を行いました。現在も米や麦の一大生産地である佐賀平野も、この時代から大規模な農地の開発が行われてきた場所です。

元来平野が多い土地だったこともあり、諫早でも佐賀藩による干拓や農地の拡張が盛んにおこなわれ、結果、この土地の米の収穫高は飛躍的に伸びました。

たくさん収穫できるようになった米を活用して生まれた新たな特産品が、おこしだったわけです。

新しい諫早駅

諫早駅には、JRの長崎本線・大村線に加えて、島原鉄道も乗り入れています。

永昌宿から長崎街道の多良通・彼杵通や島原街道が延びていたように、現代でも諫早は交通の要衝であり続けています。


島原鉄道の黄色い車両

今回訪れた2017年7月の時点では諫早駅は仮駅舎の建物で、その横で九州新幹線長崎ルートの開通に向けて新しい駅舎の建設が行われていました。

在来線に加えて新幹線の停車駅にもなるのですね。


長崎ルートの開通は2022年の予定

旧駅舎はもう見れませんでしたが、建設中の駅舎も今だけしか見れないので、これはこれで貴重なものが見れた気がします。

お菓子試食タイム

諫早・大村で買ってきたお菓子の試食タイムです。今回も社内のスタッフに試食してもらったので、感想も併せて紹介したいと思います。

黒おこし

今回は諫早と大村でおこしを入手したので食べ比べてみたいと思います。どちらも「黒おこし」という名で販売されている商品です。

距離的にも近い土地だからか、おこしの見た目もよく似ています。

大きさを比較すると、大村がやや大きいです。
色合いは諫早のほうが少し濃いようです。
おこしの中の四角形の黒っぽいものは黒砂糖です。パッケージに記載の原材料もほぼ同じでした。
(水飴・国産うるち米・黒糖・砂糖・菜種油・食塩 など)

しかし食べてみると、微妙に違いがあるようです。

【黒おこし スタッフ食レポ】

  • 大きいほう→甘さ控えめ 小さいほう→甘い(村田)
  • 大きいほう→柔らかい 小さいほう→固い(稲垣)
※個人の感想です。

やはり製造者ごとの原料の配合や製造方法のこだわりにより違いが生まれるようです。が、どちらのおこしもそれぞれにおいしかったです。

お土産などでいただくおこしの中には、ものすごく固くて齧るようにして食べるものもたまにあるのですが、大村や諫早のおこしはそこまで硬くなく、お米の粒がほどよく膨らんでいて食べやすい感じでした。

Puchi OKOC

菓秀苑 森長で黒おこしと一緒に購入したのが「ぷちおこしー」というちょっと今風の感じの商品です。1辺8cmくらいの正方形の箱の中に、一口サイズのおこしが入っています。

うなぎ味をセレクトしたのは、諫早の名物がうなぎだと聞いたのと、時期的に土用の丑の日が近かった為です。

原材料名の表示には、うなぎエキス・うなぎタレの表記もあります。

食べてみると、甘辛い味でほのかにうなぎの香ばしい味がします。山椒も入っているようで少しぴりっとするのがよいアクセントです。

サイズが小さいこともあって、スナック感覚でとても食べやすく感じました。

「ぷちおこしー」は他にもいちごやアーモンドキャラメルなどのフレーバーがあるようなので、ちょっと変わった味のおこしが食べたい方も楽しめると思います。

一口香

一口香は「いっこうこう」と読みます。

「肥前の菓子」には、もとは中国の「空心餅(くうしんもち)」が長崎に伝わり、長崎街道を経て佐賀へ伝えられたのでは、という説が述べられています。

形状がよく似ていることから、大宰府名物の梅ヶ枝餅の原型も空心餅だったのではないか、との説も述べられていました。

なお佐賀地方では「逸口香」と書き、形も長崎地方の一口香より大ぶりになります。

今回訪れた場所が特に一大産地というわけではないのですが、大村のお土産売り場で目に留まったので購入してみました。

私の地元ではスーパーでも売られているので昔から知っていたお菓子ですが、試食に参加してくれたスタッフ(福岡出身・大分出身・愛媛出身)は全員「初めて見た」とのことでした。

大きさを測ったところ直径約4~5cmでした。今後の紀行で佐賀地方の逸口香を入手する機会があれば大きさを比較してみたいと思います。

【一口香 スタッフ食レポ】

  • 「見た目に反して意外と固い」(村田)
  • 「初めて食べたのですが、お饅頭と思ってかじったら餡がなくてびっくりしました。普通のお饅頭に比べると甘さ控えめだけど硬さがあるから食べごたえあり。満足感があります。牛乳と一緒に食べると合いそう」(川崎)

 

今回の紀行マップ

また、長崎街道の位置については、こちらのページもご参照ください。

旧街道地図|GpsCycling.net 長崎街道地図
(分岐した道・なくなった道などは省略されていますが、街道の位置がgoogle Mapに重ねて詳細に記載されています。)

以上、「シュガーロード紀行」第2回をお送りしました。
それではまた。

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