【まち歩き】 唐津街道を歩く -福岡編-

【まち歩き】 唐津街道を歩く -福岡編-

ごきげんよう よしだです。

史跡や古いものに興味があり、時折ひとりフィールドワークなどをやっています。
(フィールドワークというとなんだかかっこいいかんじですが、実態はただの散歩です…。)

少し前の話になりますが、福岡市観光案内ボランティアさんが開催している「唐津街道を歩く -福岡編-」に参加してきましたので、今回はその内容を記事に書きたいと思います。

※このツアーが行われたのは2015年11月です。
実際には以下に紹介する以外の場所も訪れていますが、この記事では全て紹介しきれていません。また時間が経って少し記憶が曖昧になっていることもあり 、特に印象に残っている部分を抜粋した内容になっています。
(あと もしも文中に誤記などがありましたらお気づきの方はご指摘いただけるとさいわいです。)

【唐津街道とは】

唐津街道は、その名の通り肥前唐津藩(現在の佐賀県唐津市)へと至る、江戸時代頃に整備された街道です。

Wikipediaには「長崎街道の脇街道としての役割のほか、沿線の福岡藩(黒田氏)、唐津藩(小笠原氏ほか)の参勤交代にも使用された。」とあります。
なかなか重要な幹線道路だったようです。

Wikipedia 「唐津街道」

福岡市中心部の現在の地図と重ね合わせると、昭和通りとだいたい重なる位置に唐津街道がありました。

今回は、この唐津街道に沿って、天神~大手門付近までをガイドさんの解説を聞きながら歩きます。

【市役所からスタート】

福岡市市役所の1階ロビーに集合、
ここで受付を済ませて名札や資料などをもらいます。

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A【旧福岡県庁の痕跡】

まずは市役所を出てすぐそばの天神中央公園へ。
ここはかつて旧福岡県庁がありました。記録では明治44年に竣工されたとあります。

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公園入口の碑にある写真で在りし日の旧県庁の姿を見ることができます。何だかおしゃれで重厚な建物だったことがうかがえます…。

公園内に残る石の門や噴水そばの石の柱や階段は、この旧県庁の遺構です。

003明治~昭和初期の建物って、独特の気品があると思います

A【福岡藩刑場・福岡監獄跡】

また、この中央公園は、江戸時代には福岡藩の徒刑場、明治時代には福岡監獄があった場所でもあります。
(刑場や監獄という言葉の響きからして、現在の刑務所や拘置所よりもおそろしい場所というイメージがわきますね…。)
噴水広場の近くに「福岡藩刑場跡」の碑があります。

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【空誉上人の幽霊】
のちの時代にはこのあたりに県知事官舎が作られることになるのですが、官舎で僧侶の幽霊が出るという騒動が起きます。
昔ここで処刑された空誉上人というお坊さんが祟っている、ということで、昭和の初め頃、県庁官舎の中の庭に供養塔が造られて祀られることになりました。
それ以後幽霊が出ることはなくなったそうです。

この空誉上人は、後で訪れる「浄念寺」でも名前が出てきます。

【那珂川沿いの石垣】

江戸時代には武士の住むエリア=福岡と、商人の住むエリア=博多は別々の町としてわかれていました。
福岡と博多をつなぐのが西中島橋で、西中島橋を渡ると福岡城下への東側の入口だった枡形門がありました。
那珂川沿いには当時の石垣が残っています。

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那珂川は福岡城のお堀ともつながっていました。
現在の市役所の付近はかつてお堀だったそうで、明治40年頃にそのお堀は埋められたそうです。

江戸時代の福岡の城下町の地図を見るとお堀の場所などがわかりやすいです。
福岡県立図書館のHPで当時の地図を閲覧することが出来ます。

B【福岡市道路元標】

西中島橋のたもとには福岡市の道路元標があります。

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よく道路標識などで「福岡まで〇〇km」という表記がありますが、この距離の計測の起終点となるのが道路元標のあるこの場所です。

C【赤煉瓦文化館】

先ほど歩いてきた那珂川沿いの道と
昭和通りの交差点のちょうど角にあるのが、赤煉瓦文化館(福岡市文学館)です。

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この建物は明治42年に日本生命保険株式会社九州支店として竣工されました。
設計者の一人が東京駅の設計者としても知られる辰野金吾です。
(ちなみに辰野金吾は唐津の出身です。)

昭和44年、国の重要文化財に指定された後は福岡市歴史資料館となり、
平成2年に百道浜にある現在の福岡市博物館が開館するまでその役目は続きます。

博物館機能の移転後は、平成14年より福岡市文学館となりました。
赤い煉瓦と白い漆喰、緑青の屋根のコントラストが美しく、クラシックな内装も素敵な建物です。

D【水鏡天満宮】

赤煉瓦文化館のすぐ隣には水鏡天満宮の参道入り口があります。

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この神社は、初代福岡藩主 黒田長政が 北東(うしとら)の鬼門を守るために、今泉からこの地に移したと伝えられます。
写真の鳥居の扁額は、黒田家13代目 黒田長成の揮毫です。
なお、もう一方の参道にある鳥居の扁額は、内閣総理大臣も務めた福岡出身の政治家、 広田弘毅が小学生(!)の頃に揮毫したものだそうです。

【昭和通り】

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この昭和通りという名前は、昭和44年、福岡市制施行80周年を記念してつけられた名前だそうです。
終戦直後の復興土地区画整理事業で整備された道路で、それまでは道幅が50mであることから「50m道路」と呼ばれていました。ストレートすぎる名前です…。

E【日本銀行 福岡支店】

昭和通りを天神方向に向かって進んでいくと、日本銀行福岡支店があります。
昭和26年完成のルネッサンス風の気品ある建物です。

ガイドさんの解説によると、実はこの建物、建て替えが決まっているのだそうです。

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まとまった人数で申しこめば見学も可能とのこと。なくなる前に見学したい…。

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HPではバーチャル店内見学も出来るみたいです。 http://www3.boj.or.jp/fukuoka/virtual-top.html

F【Mina天神】

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時代により変遷はありますが、この場所に最初に店舗が出来たのは明治44年、松屋モスリン店という呉服店がはじまりです。
昭和4年には松屋百貨店が開業します。しかし戦時中は一度閉店、空襲で店舗も消失しました。
戦後 昭和22年に事業再開、昭和48年の新築後はマツヤレディス、その後改装・事業譲渡等を経て現在のMina天神に至ります。
福岡ではじめてのエスカレーターが設置されたビルはここだったそうです。

【Mina天神前の交差点】

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十字路がまっすぐに通っていません。
これは城下町だった頃の区画整備の名残で、敵が攻めこんできた時に備えて わざと道路をまっすぐに通していなかったのだそうです。

【実はお寺が多かった天神エリア】

昔、福岡藩は小倉藩と仲が悪かったこともあり、万一の際に備え、城下の防御を固めるために城の東側や海沿いにお寺を集めたそうです。
福岡市内で特にお寺が多い場所といえば御供所町付近ですが、天神から大名にかけての一帯もお寺が多いエリアです。

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上の図は古地図を参照してgooglemapに昔の海岸線のだいたいの位置を書き加えたもの。昔あった場所から移転したり、今ではなくなったお寺もあります。たとえば現在ショッパーズ福岡がある場所にもかつて極楽寺というお寺がありました。

G【安国寺】

安国寺には「飴買い幽霊」の話が伝わっています。飴買い幽霊のお墓と伝えられるものや黒田藩お抱えの刀工 信国の墓も境内に残っています。

「飴買い幽霊」 -福岡市中央区HP-

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天神一帯のお寺の建物が比較的新しいのは、太平洋戦争時の福岡空襲で焼けてしまったことと、現在の消防法で一定の床面積以上のお寺は鉄筋で建てないとだめという決まりがあるから、らしいです。

H【神屋宗湛の茶室の庭】

新天町のちかくにあるヒューリック福岡ビルは一見普通のオフィスビルですが、この建物の中には、神屋宗湛(かみや そうたん)の茶室の庭が復元されています。

神屋宗湛は、豊臣秀吉や黒田官兵衛と同時代に生きた博多の豪商です。

“秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後は博多商人の第一人者として栄華を極めた。「太閤町割」と呼ばれる博多復興事業でも大きな役割を果たし、また秀吉の九州征伐においても資金面で援助している。”
Wikipedia 「神屋宗湛」

どうしてこんな場所に宗湛の庭が復元されているのか、
その経緯は紆余曲折あるのですが、それをまとめていらっしゃるブログがありましたので、詳細はこちらをご参照下さい。

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エレベーターで上の階にあがり、庭を見下ろしたところです。
秀吉が茶を楽しむ間、お供してきた石田三成が腰を下ろして待ったと伝わる石や、大宰府政庁の礎石の石、文禄・慶長の役の折に持ち帰ったと言われる石などを見ることが出来ます。

※オフィスビルですが中に入って静かに見学することは可能です。

I【玄洋社跡の石碑】

玄洋社は旧福岡藩士を中心として結成された政治結社です。

中国の辛亥革命を起こした孫文や、インド独立運動の活動家ビハーリー・ボースなどの支援も行うなど、国内だけにとどまらずアジアを舞台に非常にグローバルな活動を行っていました。
思想的に いわゆる右翼とみなされる傾向が強かったため、太平洋戦争後、GHQから ”日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派” として、解散を命令されてしまいます。

戦後、玄洋社跡地そばには「玄洋ビル」が建ち、その中には「玄洋社記念館」がありましたが、その記念館も2008年で閉館しました。(資料は福岡市博物館に寄託されました。)
今はNTTビルの一角の跡地に、玄洋社跡記念碑が残るのみです。

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↑これは石碑の裏面の文

 

【玄洋社と杉山茂丸・夢野久作】
以前 別の記事で取り上げた夢野久作 ですが、夢野久作の父である杉山茂丸は、この玄洋社の中心的な人物でした。
(当時の首相・閣僚と深い親交があり、明治政界の黒幕とも呼ばれる程の人物で、
日本興業銀行の設立運動や日露戦争の終結に尽力したり、地元では九州鉄道の設立や博多築港に関わったり、関門トンネルの建設を構想したりしています。)

夢野久作がなぜ地元福岡でそれほど知られていないのか、という疑問ですが、
それは太平洋戦争直後の「玄洋社=極右政治結社」というタブー視が、そのまま茂丸や息子の久作にも向けられてしまい、玄洋社の地元であった福岡では、なんとなく忌避され、忘れられ、正当に評価されてこなかったという経緯があるように思われます。さいわいなことに近年では、そういった偏見もなくなってきているのではないかと思います。


J【浄念寺】

最初に訪れた天神中央公園、「福岡藩刑場跡」で名前が出てきた空誉上人ですが、
このお寺にはその空誉上人をまつる空誉堂があります。

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写真がビミョーなアングルで 実にすみません…。

空誉上人はもともと播州(兵庫県)の生まれで、黒田官兵衛が九州にやってきた際に一緒についてきたお坊さんです。
黒田家の信頼もあつく重用されていましたが、重臣であった後藤又兵衛が出奔した際に、身代わりになって処刑されてしまいます。
※空誉上人の処刑の理由については他にも諸説あるようです。

その処刑方法は、釜に入れて背中を切り裂き、熱く煮えたぎった鉛を流し込むという凄惨なものだったそうです。
処刑後うち捨てられていた上人の遺体を運び、浄念寺に葬ったのがのちにこの空誉堂になったと伝えられています。

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【水鏡天満宮との関連】

この空誉上人がつくった地福寺というお寺があったのですが、上人の処刑後 廃寺となってしまいます。
その跡地に作られたのが水鏡天満宮なんだそうです。

K【大原松露饅頭 福岡店】

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松露饅頭といえば唐津の銘菓、この唐津街道沿いを歩くコースのしめくくりにぴったりのお菓子と言えます。

“豊臣秀吉が、朝鮮出兵(文禄の役)後、高麗から陶器と一緒に渡ってきた文化の中に焼饅頭がありました。
その後、江戸後期になり当家の先祖、阿わび屋惣兵衛が焼饅頭に創意工夫をこらし、時の藩主小笠原侯に献上したところ、当地の虹の松原(日本三大松原のひとつ)に、四、五月頃、松の根元の砂から自生する、球状の松露(キノコの一種)のコロコロとつぶらな姿に似ていることから「松露饅頭」とつけられました。”
-大原老舗HP-

そういった由来のお話を聞いた後、お店でお茶と松露饅頭を頂いてコースは終了となりました。

【ツアーを終えて】

時間にして約2時間、市内のふだんよく通る場所が中心のコースでしたが、
知らなかったことが色々あり、メモを取るスピードが追いつかないくらいにガイドさんの解説が盛りだくさんの濃い内容でした。

この「唐津街道を歩く」シリーズは定期的に開催されていて、毎回 博多編、西新編、姪浜編など内容も異なり、すぐに参加募集枠が埋まってしまうほど人気とのことです。

ご興味のある方は市の広報誌やHPをまめにチェックしてぜひ参加してみてください。

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